映画「余命10年」をミッショニング的に解説

決断コーチの、井上由紀です。

先日、お世話になっているグループで
「余命10年、泣けた」とある方がコメント。

カナダに住む私は、当然のごとく
「余命10年って、何?」

すぐに検索して、話題の映画だと知りました。

そして、あらすじを読んで
予告編を見て涙腺崩壊(トシでしょうか??)。

引用:ワーナーブラザーズ公式サイトより

そして、思いました。
これ、ミッショニング的に言うと
こうなるな~、と。

(注記:ミッショニングとは井上が学んでいる数秘術の一種です)

今日は、それを少し書いてみます。

どうして難病になるの?

主人公の女性は、大学在学中に突然
難病になり、余命はあと10年と宣告されます。

実際、数は少ないですが
こういうことは起こります。
原作を書かれた作家さんご自身が
そのご病気でお亡くなりになりました。

ミッショニング的に言うと、それは
その魂が、初めから人生のある地点で
その病気を発症する、と決めている
ということになります。

それと関係する場合もありますが
魂は、寿命も決めてこの世に生まれてきます。

NHKの人気番組
「チコちゃんに叱られる」というので

「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」

という名セリフがあるらしいですが
(これも最近知った)
魂的に言うと、まさにその通り。

寿命は「決まっている」んです。
ぼーっとしてる場合ではなくて
それまでに、やることやらないと!
という感じですね。

話が逸れてしまいましたが、
魂的に言うと、難病の発症というのも
最初(生まれる前)から設定されています。

感情として、とくに当事者の方にとっては
「そんなこと言われても」
という思いはあるかとお察ししますが、
ひとつの情報として捉えていただければと思います。

辛いだけの恋なのに、神様は意地悪?

余命宣告を受けた主人公は、
恋することを避けようとします。

大好きだった人とのお別れを
経験したことがある人であれば、
「好きであればあるほど、辛い」
この痛みが、嫌というほど分かると思います。

それでも。

自分の余命を知っている主人公も
それを最終的には知らされる彼も
惹かれ合う気持ちを抑えることは
できませんでした。

もしも、どちらかの気持ちが
そこまで盛り上がらずにいたならば、
「お別れ」の痛みは
ずっとずっと、軽かったでしょう。

彼女は本来、それを願っていたのです。

なのに、その願いとは裏腹に
彼と強く惹き付けられていきます。

これをミッショニング的に考えると
どうなるか。

まず「愛」について。

「愛」とは、一体感です。
そして、人は潜在的に
一体感、つまり「愛」を求めます。

誰かと一体である、一人ではない
という感覚を、求めるということです。

次に「誰かを愛する」。
「愛」は状態ですが、
「誰かを愛する」は行為です。

人を好きになり、一所懸命その人のことを思い
お付き合いが始まり、ドラマが展開する。
その意味とは?

「一体感(愛)を感じたい」というのは
動機ではありますが、
魂的に言う「目的」ではありません。

人と人が惹かれ合うのは
「お互いの学びを深めるため」
もっと言えば、それぞれが決めてきた
使命と課題に取り組むため、です。

その過程で、深い悲しみや辛さを
味わうこともあります。

その深さは学びの深さでもあり
大切なのは、その経験を
その後どう活かすか、という点。

「余命10年」では、関係するすべての人たち
とくに主人公の二人の心と思いの振れ幅が
非常に大きくなっています。

そこでの「学び」は
「やったー!」とガッツポーズをするような
嬉しさや喜びのパッケージではありません。

しかし、深い「感動」を伴った
大きな学びである、と思います。

人は、感動するために生きているのかもしれません。
そして、感動とは「感情が動く」こと。

日本人の持つ「あはれ」「かなし」は
表面的には静かに見えながらも
深く感じ入り、心が動かされる
その言葉にしがたい「大切なもの」を表現している。

この映画にも、それを感じます。

「恋が実ること」「二人が幸せになること」
が大切なのではなくて、
生きている時間に体験したことから何を学び
それをどう、その先に活かしたか。

ミッショニング的に言えば、そちらの方がはるかに大切です。

「涙を流すこと」

それは、とても大切なことですし
だからこそ、生きている意味があります。

小説化、映画化、その意味は?

「余命10年」は、ご自身も難病を持った
小坂流加さんが書かれた小説です。

最初は自費出版覚悟で出版社へ持ち込んだ
ということなので、おそらくは
本を出したい、小説家になりたい、という
強い思いを持たれていたのでしょう。

ミッショニング的に言えば、
流加さんにとって、それは
使命に沿った行動だったのだろうと思います。

「使命」というのは、魂が
その人生でやりたいと思っていること、方向性です。

例えば「人が自分らしく生きられる世界を作りたい」
みたいな感じです。

そして、その使命を実現するための
「手段」は無限にあります。

この「手段」は人それぞれ、自分で選べます。

つまり、自分軸があるというのは
「使命・方向性がある」という意味で、
それに沿ってさえいれば、手段は何でもオッケー。

流加さんの場合は「手段」が
「小説を書く、本を出版する」でした。

では、その手段をもってして
流加さんが実現したかった「使命」は
何なのでしょうか。

本来、それはご本人が
ご自分のカタチでお持ちですし
それを他人がどうこう言うことではないのですが、
私なりの解釈を書かせていただくと

「ぼーっと生きてるんじゃねえよ!一所懸命生きろ!」

と、多くの人に伝えること
だったのかなぁ、と。

ちなみに、流加さんのお誕生日は1978年7月4日
魂パターンが【36/9】。
「自分の生き方を通して、人の模範となる」
数字をお持ちです。

そんな流加さんの、短くも深い生き方が
回りまわって「映画」という形にのって
今生きているわたしたちのもとに届きました。

映画=流加さんの生き方、ではないですが
原作の作者としての存在、流加さんの生き方が
映画に触れた人々に、独自のインパクトを
与えていることは間違いない、と思います。

では、この映画に触れることで
あなたは何を学び、
この先にどう活かしていくでしょうか。

流加さんが、自分の「想い」を
小説というカタチにしたことで、そこから
映画という、次のカタチが生まれ
ご自分の「使命」を果たされたように。

受け継がれた「感動」で
あなたの「想い」が呼び起されたなら、
それをどんな手段でカタチにできるか。

考えてみる価値ありかと思います。


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