井上さん、何やさん?シリーズ3)石ころになりたかったガラスの10代

決断コーチの、井上由紀です。

崩壊セッションが引き起こした
脳内タイムトラベルと
アセンションの軌跡を描く、感動の
「井上さん、何やさん?」シリーズ。

全体像はこんな感じになる予定です。

前回は健康にも猛烈インパクト!
呪いにもガイドにも梯子にもなる
家系に流れる精神性の話
でした。

今回は、仙人系思春期の終わり
わたしがなぜ出家ではなく
就職を選んだか、というお題です。

執着したくない仙人系修行の始まり

ティーンエイジ。
第二次性徴のホルモン作用と共に
精神的にも不安定になり
悩みとニキビが増える年頃です。

高校に入ったわたしは、ある日
突然降ってきた
「ドラムをたたきまくるビジョン」により

「バンドをやる」

という啓示を受けました。
単なる時代の影響だったかもしれません。

そして、ビジョンはドラムだったのに
なぜかギターを選択し、
ご縁合って集まった仲間と
音楽活動を始めたのです。

それをきっかけに、ノートに
ごにょごにょと書き綴りを始め、
歌詞を書いて曲を作るようになりました。

このごにょごにょノート活動は
ごにょごにょ手紙活動にもなるのですが
大学で出会った親友の提案により
交換日記として発展していきます。

昭和版チャットですね。
アナログ、スローペースの。

それは、わたしにとって
内観の有用なツールとなりました。

そこに書きだし、読み返し
フィードバックをもらうことで
自分を深く、多面的に、見つめていました。

要するに、哲学的でした。
当時の口癖は

「石ころになりたい」。

感覚的にそう言っていましたが
今思うと、自分の一挙手一投足で
他人が反応することが負担だったのでしょう。

自分がどんなつもりであったとしても
張り合っている人は、勝手に憤る。
好意を寄せてくれる人は、ヤキモキする。
自分のことを気にかけてくれない、と悲しむ。

見られると恥ずかしい。
恰好付けようとしちゃう。
そんな自分、ダサい。

もう、やめて~~。
いっそのこと、誰もわたしに
関心を払わないでくれたらいいのに。
道端の石ころのように、放っておいてほしい。

わたしは、石ころのように
な~んにも動じずに
そこに無造作に転がって
気楽に息をしていたい。

うっかり蹴っ飛ばされても平気の平左で
自然体でコロコロと転がり、止まり
風景の一部としてただそこに
存在するだけの、平穏がほしい。

って…
正直、自意識過剰と言ってしまえば
それまでの話です。

でも、そう感じてしまう感受性がある。
それがある以上、
いくら「自意識過剰だよ」と言われても
感じてしまう、うろたえてしまう現実は、変わらない。

ビジネスでも同じですが、
「原因はこれです」なんてことが
別に知りたいわけじゃないんです。

結果をくれ、結果を。問題を取り除きたいんだよ。

当時のわたしはまさにこの、お客様の心境。

で、とても苦しかったので

「そういう風に感じなくなれば、問題解決するんじゃない?」

そんな発想に辿り着き、
うろたえの真反対に見えた
「淡々と生きる」
仙人の道を目指し始めます。

何が起こっても動じず、飄々と
霞を食って生きる仙人。
憧れでした。

とはいえ、仙人になるには
いったいどうしたらいいのでしょうか。

分からないまま、様々な思想書を読み漁り
座禅を組んだりロウソクを眺めたり、
若き哲学少女はあれこれと思いつく限り
心を滅する修行に励んでみた。

しかし、表面的にはクールを装ってみても
執着したくないという思い、すなわち
「執着しないことへの執着」は、消えません。

淡々どころか果てしなくグルグルと
自己の世界はますます混沌とし、
友人彼氏はますます密着し…

一体この先に、心の平安はあるの?
夢の仙人ワールドには
いつか本当に辿りつけるのだろうか?

そんな疑問が、じわじわと増幅していきました。

遊びは終了、Dower たれと直感は言った

そんな悩める若人は、大学卒業後
大学院へ行って哲学するか
それとも出家してしまおうか、と考えました。

友人や彼氏との関係がこじれるにつれ
自分が関わることで誰かの人生が
左右されるという現実と未来が、怖かった。

ひたすら自意識過剰。
負わなくてもいい責任を
勝手に背負いまくったうえで、
そこから逃げたかったわけです。

自作自演ですね…

そうやってお膳立てした上で、
もっと知識を得たり修行をすれば
どこかに行きつけるのではないか、と
都合のよい妄想を膨らませていました。

別の言い方をすれば
自分が楽しめる世界を自分で作って
そこで遊びまくっていたのです。

しかし。
悩み(遊び)続けたある日、それは
ふいに降りてきました。

山や学校にこもるのではなく
「俗世」で思いっきり生きるべし、
Dower(行動する人)であれ、と。

これはもう、感覚で
分かったとしか言いようがないのですが
それが自分にとっての正解だと分かりました。

そして、進学も出家も止めて
就職に、気持ちが定まりました。

結局は、潜在意識レベルというか
顕在すれすれのところで
ちゃんと分かっていたのだと思います。

いくら頭で考えてみたって、
実社会で実践稽古していかないと
納得なんて、手に入らない。
アンタの場合は特にね!という感じで。

だから、やれ。

頭でっかちになりがちなわたしにとって
この時の「Dowerであれ」という声は
今も非常に大切な指針となっています。

出家されたり学問で
道を究められる方たちには、
その道を選ぶご縁があり
そこで果たすお役目があるはず。

ただ、わたしという人間は
そこではなく、あくまでも泥臭い俗世間で
実社会にどっぷり浸りながら
自分の正解を探していく気がしています。

「見られたくないから見せちゃえ!」問題解決の傾向

もう一つ、ここまで書きながら
特記しておくことがあると思いました。

それは、特徴的だなと思う
わたしの「問題解決パターン」です。

Nさんに言われた

「修行が好きなの?」

にも通じる気がします。

修行。苦しいことにあえて挑むこと。

わたしは、自分が苦しいと感じると

「だったら、とことん苦しんでしまえ!」

と、逆説的に行動する傾向があるようです。

習うより、慣れろ。
苦しいと思うことも
それが当たり前になれば何でもなくなる。
その状態が欲しいのかもしれません。

落ちていく過程にあるのであれば
早いとこ「底」を知った方が
早いとこ楽になりそう、という
希望的観測かもしれません。

変な例えですが、
食べるだけ食べてもうダメ、となれば
からだは「吐く」という自然現象で
ちゃんとバランスを取ってくれる。

苦しいと思っても、まだ苦しめるってことは
限界まで行き着いていないということであり、
だったらさっさと限界に行っちゃった方が
振り戻しも早く来るんじゃないか。

苦しみが目的ではなく、
その先にありそうな「お愉しみ」が目的。

例えばバンド活動では、間もなく
ボーカルをやるようになりました。

「わたしを見ないで~!」
という自意識過剰が、あえて
一番目立つど真ん中ポジション。
ぱっと見、意味不明です。

しかし、見られたくないというのは
「まだ見られていないものがある」
という状態だから起こる感覚。

だったらもう、ドカーンと見せちゃえば
「見ないで~」とかいう発想さえ起こらない。
発想が起こる原因を、
能動的に取り除いてしまう根本治療。

ステージに立つことは、わたしにとって
「リハビリ」でした。

自意識過剰のズルズルがある、
と認識していたからこそ
これで自分鍛えるぞ、的覚悟を決め
オラオラ感満載でマイクを握りました。

そんなわたしですから、
「格闘技の実践稽古」なんて言葉を聞くと
ワクワクしてしまいます。

人間関係でも、そうです。
泥沼をガッツリ経験してきたのは
「とことんまで、格闘し合おうや」
というわたしの好みが反映された結果。

何があるか分からない、
何が出てくるのか分からない。
その恐怖をそのままにしておくのに
耐えられませんでした。

解決策として「逃げる」もあったはずですが、
わたしはドドッと突っ込みました。

突っ込んで突っ込んで、底まで行けば
あとは上がるだけなはず、という
根拠のない確信というか「本能」が
そこにあった気がします。

仙人になりそこねた武闘派のわたしは
その後、ご縁をいただいた某企業に就職。
約4年間、バリバリ働きました。
そして26歳のある日、カナダに旅立ちます。

次回は、カナダという国に渡ってから
わたしの身に起こったあれこれを
吟味してみることにします。


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