決断コーチの井上由紀です。
思い出す「愚痴」と「ふでばこ」と「私の本」
母が言ったのを覚えている。
「あんたは、やさしくない」
長男の嫁として、商売人の奥さんとして
夫と姑と世間に気を遣い
言いたいことも言えずにいた母は
その思いを子供にこぼした。
それを聞いたわたしは、やれやれと
面倒くさい気分で
「わたしに愚痴るより、お父さんとおばあちゃんに直接言えば?」
と正論を振りかざした。
きっと、ただ聞いて欲しかったのだろう。
それが、突っぱねられるものだから
「やさしくない」という
これまた愚痴になったのだろう。
今なら、分かる。
とはいえ。
気の優しい兄や妹と違い、
わたしは「他人が自分に踏み込んでくる」ことに
我慢のできない子供だった。
学生時代の、とあるシーンを覚えている。
机がガタガタと集められているのは
掃除の時間か何かだったのか。
そこに、ある友人が笑顔で
わたしの「ふでばこ」を持って立っている。
とっさに、湧き上がる「怒り」。
「勝手に人のもの触るの、やめてくれる?」
つられて、別のシーンが浮かぶ。
それは、大学を卒業した後のこと。
ひとり暮らしを始めた妹のところに
遊びに行った時だった。
わたしが実家にいた時に買って
そのまま置いてきた本が、彼女の本棚にあった。
少し大人になっていたわたしは
いきなり「勝手に人のものに…」
とはやらなかったのだけれど、少し考えてから
諭すような口調で、ゆっくりと言った。
「確かに、置いてあっただけだからいいんだけどね。
でも、一応人のものだから、一言言ってくれたら嬉しいな。
もしかしたらそういうのが気になる人もいるかもだから、
今後、ちょっと気を付けてみたらどうかな」
そんなようなことだった。
ふでばこ事件の「怒り」を10とすれば
その時の「怒り」は1~2程度。
ムッとした、というより「ん?」くらいの
無視してもいいか、というくらいのものだった。
だけど、無視しなかった(笑)
なぜ?
それは、わたしが大人気ないからだ。
と同時に、正直に伝える方が
彼女の成長につながるんじゃないか、
と考えたからだった。
それにしても。
なんとまあ、
「自分」意識の強い子供だったのだろう。
分かったふりをされるより、分からないと言われたい
続けて思い浮かんだのは
若い頃、親しい友人たちに言っていたこと。
人のことなんか、分からなくて当たり前。
「分かった」ふりをされるより
「分からない」と言われる方がよっぽどいい。
分かってもらえなくてもいい。
分かってほしいわけじゃない。
その時の感情は、寂しさではなく
むしろスッキリとした思い。
「あ~、分かる分かる!」
と、相手は分かっているつもりのようだが
当の自分は
「いや、そうじゃないんだけどな~」
と感じる方が、よほど辛くて、寂しくて、腹立たしかった。
それくらいなら
「へぇ~、そうなんだ(よくは分からないけど)」
とやられる方が
わたしの心は100倍、穏やかでいられた。
今のわたしが、当時のわたしに会ったなら
思わず微笑んでしまうだろう。
「若者よ。いいね~!」
そして、とても愛おしく思うだろう。
自分がされて嫌なことは…
自分がされて嫌なことは、人にしないように。
分かりやすくて、取り組みやすい明言、名言だと思う。
「感情」は、原動力。
自分が嫌な思いをしたり、悲しかったことは
注目するに値する。
なぜならば、その感情を繰り返さないために
人は、かなりの努力ができるから。
モチベーションの動機となるからだ。
わたしの場合、その感情の大元は
「分かった気になるなよ!」
これは、翻訳すれば
「わたしを尊重してくれ」であり
自分がされて嫌なのだから、当然
「人も尊重したい」になる。
その意味は、わたしの師の言葉を借りれば
「霊性を尊重したい」ということになる。
わたしは、自分の霊性
つまり「わたしがわたしであること」を
脅かされそうになると、
攻撃という「防御」をしていたのだった。
そして、自分の霊性を自分で守ろうとせず
そんなこと言われてもなぁ、という子供に
愚痴るばかりの母の姿に
「問題の根本に取り組んで、自分で自分を助けてやれよ。大人なんだから」
と、鉄拳を食らわしていたのである。
そんな仕打ちを受けながらも、つい
こぼさずにはいられなかった母は、
それだけ辛い思いをしていたのだろうけれど。
今なら、もうちょっと受け止められる。
そして、コーチングするだろう(笑)
母はもう、亡くなっているけれど。
これまで出会った人たちとのおかげで
学んできたことをもとに、
コーチングを深めていくことが
「自分がされて嫌なことは、人にはしない」
の、わたしなりの実践だ。
ナチュラルコーチ誕生
コーチングを学ぶにつれて
自分はいわゆる「ナチュラルコーチ」だと分かってきた。
その原動力となったのが母との体験であり
筆箱やら本やら、友達との会話の中で
感じて来た怒りや違和感だった。
あくまでも、わたしが理解する範囲
もっと言えば、単なるわたしの意見だけれど
ナチュラルコーチというのは
自分も相手も、とことん尊重したい人だと思う。
ナチュラル教師ではなく、ナチュラルコーチ。
その大きな違いは
「相手も自分も尊重したい」
という一点ではないか、と考える。
わたしの場合は海外に出たことも
自分の学びと成長に大きく影響している。
そもそも自分の言葉が不自由だという
「自覚」が半端なく養われる。
通じていないかもしれない、ということが
日常的な前提になるのである。
さらに、相手との文化の違いもあるわけだから
会話には人一倍、注意を払わざるを得ない。
そんなことも相まって、いつしか
相手の話を細かく聴き、身振りなどの非言語情報
さらには環境や履歴といった背景も踏まえ、
相手の言わんとすることを理解する姿勢が当たり前になった。
子供との関係は、さらにひっ迫したものとなる。
彼らは小学校の中学年にもなれば
もうわたしより遥かに英語が達者である。
そんな彼らの母であるためには
とにもかくにも、できるだけ正確に
情報を把握する必要があるのだ。
そうなるともう、質問をしながら
丁寧に話を読み解いていくしかない。
子供たちは幼いころからそれに慣れているので
辛抱強くわたしに話してくれる。
その中で会話は膨らみ、深みを増していく。
だが、英語が流暢な友人や先生となら
そんな丁寧な会話は、なかなか生まれない。
結果、周りにいくらでもいる
英語ネイティブを差し置いて
「ママはカウンセラー」と言わしめている。
子供たちの成長具合を見ていると、
コミュニケーションとは言語そのものではなく
どうやって会話するか、なのだと
ますます思うようになっている。
これは職場でも同じで、
わたしの英語はお世辞にも
第一線のプロ級とは言えないにもかかわらず
社長さんたちには本当にかわいがってもらった。
ある社長が、こんなことを言ってくれた。
「僕はね、一般的に
人の言うことは半分しか信じないけど、
君の言うことは80%信じるよ」
言葉や、ネイティブなら当たり前の一般教養に
頼ることができないからこそ、
全身全霊で「そこにある情報」を取りに行く。
まさに必要は発明の母である。
そして、英語も日本語も不十分な自分だからこそ
できることがあるのだ、と思うようになった。
No.2
今年(2022年)に入って
とある有名コーチの存在に出会った。
そもそも勉強不足のわたしなので
その方が有名であるということさえ
知らなかったのであるが…
ともかく、わたしが感動したのは
彼が有名だからではない。
そうではなくて、その人が初めて
わたしが思って来たことを
意識的に重要視し、言語化してくれている。
そう感じたからである。
「意識的に、重要視」
ここに、感動したのである。
大事だから、繰り返してますよ。
話が滅茶苦茶飛ぶようであるが
全て後で繋がると思って
容赦して読み進めていただきたい。
その有名コーチの会社名は「No.2」。
実はこの【2】という数字。
わたしに非常にゆかりのある数字なのだ。
数字にはそれぞれ意味があるのだが、
【2】には
・まとめる
・管理する
・補佐する
野球なら2番はキャッチャー
「女房役」「縁の下の力持ち」「参謀」。
そして、数秘術で出るところの
わたしのナンバーが【2】。
それも【20/2】という
「2の中の2」なのである。
これは、わたしの人生を振り返っても
非常に合点の行くところが多く、
数秘術の師に出会ってからはますます
自分の立場・役割を意識するようになった。
そして、理解を深めれば深めるほど
コーチングというのが
自分に与えられた全てのものを活かすのに
ピッタリのツールだと思うようになった。
実は数秘の考え方も
コーチングの役に立っている。
その筆頭が
「人はそれぞれ、違った適性の元に生まれてきている」
これを知るだけでも、
相手が自分と同じよう「でなければいけない」
という無意識の思い込みに
謙虚になれるのではないかと思う。
コーチングがティーチングになりがちな理由は
すべてここにある、と言っても
過言ではないと、わたしは思ったりしている。
ちなみに数秘では1~9のタイプを
まずはザックリと分けるのであるが、
その中でも2番は
・人の成長を引き出す
・二番手、つまり「補佐」が適役
・本質を追求する
もうコーチしかない!という感じではなかろうか。
(主観が入っておりますことはご了承ください)
ということで、実は某有名コーチの
お誕生日をとても知りたいと思っている。
コーチングを考えている方に
昨今、コーチングは大流行のように見える。
わたし自身もそうであったけれど
ぶっちゃけ、コーチって資格はないので
自分で名乗ればコーチになれるのだ。
なので、コーチにもいろいろ。
これは別に、コーチに限ったことではないし
もっと言えば「価値」というのは
評価する側によって変わる、相対的なもの。
だから、わたしは相性を
何よりも大事な判断材料として欲しいと考えている。
その上で、そうは言ってもコーチングと名が付く限りは
これは大事なじゃないか、ということを二つ
最後に言っておきたいと思う。
一つ目は、コーチングは原則として
答えを直接「教えてくれる」ものではないですよ、
ということ。
これは、コーチングを受けたい人が
持ちがちな間違いであるのだけれど、
コーチの方も最初にきちんと
説明できていないことにも問題があると思う。
もちろん、自らの失敗を元に語っている(笑)
人には「ソリューション(解決)モード」というのが
本能レベルで備わっていて、
誰かが何かを話してくれると、つい
「じゃあこうすれば」と解決策を言いたくなる。
普段の会話でこれをやる分には
問題がないのであるが、
わざわざ「コーチング」をやるのであれば
コーチに正解を求めてはいけない。
もし「答え」や「参考意見」をもらうのが
あなたの目的であれば、コーチよりもコンサルや
アドバイザー、メンターなどを選ぶ方がよい。
とはいえ、実際は一流のコーチであっても
クライアントの必要とする情報を持っている時は
提供する場合もある。
ただ、その前提はあくまでも
「それをどうするかは、クライアント次第」
ちなみにわたしの場合は
コンサルやメンターの立場も取るのだが、
その際はクライアントに
「今、コンサルモードにも入れますけど、どうします?」
などと聞くようにしている。
そうしないと、相手の中に
コーチ=助言(アドバイス)してくれる人
という図式が、知らず知らずのうちに
創り上げられてしまうから。
しかし、コーチは助言(助ける言葉)は助言でも
あくまでも二次的な助言、
「本人が自分で考え、納得して答えに辿り着くこと」
を助ける言葉のみ、発するのである。
このように
「コーチにアドバイスは求めるべきではない」
これが、一点。
もう一つは、コーチングというのは
「目的」という概念に基づいているということ。
人は、生まれて来た瞬間から
肉体が「生きる」という目的に向かって
アクションを起こし始める。
つまり、人間というのは
「生きる」という大原則の上で
活動を行っているのだ。
その「生きること」の最後が死であり
そこに到達するまでにどうしましょうか、
というのが人生である。
コーチングは、その人生の大きな方向性の中で
より小さく具体的な目的と方向性を探り
そこに実際に向かえるように、と
いろいろ考えるプロセスである。
言い換えれば、日常の全てに
人は「方向性」を見出したくなるものであり、
それをハッキリさせるために
コーチングが使えるよ、ということだ。
だから、あなたがコーチングを
したい側であれ、受けたい側であれ
コーチングに興味を持つ時点で、
それは人間として真っ当な興味関心だと思う。
その方向性に、ぜひ注意を払って欲しい。
一つ目と繋がって来るけれど
その目的は「あなたの」目的であるべき。
それがコーチや、他の誰かの目的になっていないか。
そこが、とても大切な見極めポイントだと思う。
「決断コーチ」というわたしの肩書には
「あなたの」決断であること
コーチとして、あなたの決める力を育てるサポートをすること
が盛り込まれている。
そして、あなたにはあなたの進みたい方向が
必ずある、ということも信じている。